最高裁判所第三小法廷 平成8年(オ)609号 判決 1999年3月23日
上告人
甲野花子
外五名
右六名訴訟代理人弁護士
荒川文六
同
森英子
同
藤田健
被上告人
国
右代表者法務大臣
陣内孝雄
右訴訟代理人弁護士
滝澤功治
右指定代理人
山崎潮
外一〇名
被上告人
乙山春夫
被上告人
丙川夏夫
右両名訴訟代理人弁護士
滝澤功治
主文
原判決を破棄する。
本件を大阪高等裁判所に差し戻す。
理由
上告代理人荒川文六、同森英子、同藤田健の上告理由について
一 本件は、国が開設する神戸大学医学部附属病院(以下「神大病院」という。)において、顔面けいれんの根治手術である脳神経減圧手術を受けて、その後脳内血腫等により死亡した患者の遺族らが、右死亡は手術担当医師の術中操作に過失があったことによるものであるとして、担当医師ら及び国に対し、不法行為に基づく損害賠償を求める事案である。
原審の確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
1 本件手術前の治療経過
甲野太郎(昭和八年一二月二七日生)は、昭和五二年ころから右側顔面けいれんにり患し、昭和五四年六月ころから神大病院麻酔科で顔面神経ブロック法の治療を受けていたが、その効果が持続しなくなり、症状も悪化してきたことから、同科で顔面けいれんを根治するための神経減圧術を受けることを勧められ、昭和五七年一月、同病院の脳神経外科において診察を受け、後記のとおりの神経減圧術を受けることにした。
2 神経減圧術について
顔面けいれんは、通常、顔面神経から離れた位置にある脳底部の血管(前下小脳動脈あるいは後下小脳動脈)が動脈硬化等のために伸びたり蛇行したりすることにより、脳橋の近くで一部顔面神経に接触し、そのために当該動脈の拍動が顔面神経を圧迫して起きるものとの見解がほぼ定説になっている。神経減圧術は、顔面けいれんの根治手術であり、患者の耳介後方に直径数センチメートルの開頭を行い、硬膜切開後、後頭蓋窩深部において顔面神経を圧迫している動脈等をはく離し、血管と神経との間に筋肉又はスポンジ等を挿入するというものであるが、後頭蓋窩内での手術であるから、十分な術野を得るために、硬膜切開後、髄液の排出・吸引等により小脳の容積を縮小させるとともに、脳ベラで小脳半球を開排する必要がある。
なお、神経減圧術は、術後の合併症として聴力障害、顔面神経麻痺等を生ずることがあるほか、生命にかかわる小脳内血腫、後頭部硬膜外血腫等を生ずる可能性があり、当時、既に患者の死亡例が一例報告されていた。
3 本件手術の経過
(一) 太郎は、昭和五七年四月二六日、神大病院に入院し、三週間にわたり脳血管撮影等の諸検査を受け、神経減圧術の適応があり、全身麻酔下での開頭麻酔下での開頭手術に耐え得るとの診断を受け、また、入院中一過性の高血圧が見られたが、同病院第一内科で手術に差し支えないとの診断を得た。
(二)太郎に対する神経減圧術(以下「本件手術」という。)は、同年五月一七日午前八時五〇分に開始された全身麻酔の下で、午前九時五〇分ころ、同病院脳神経外科の医師である被上告人丙川夏夫を執刀者、被上告人乙山春夫外一名を助手として開始され、太郎の右後頭部の頭蓋骨に約四センチメートル四方の穴を開けて硬膜を切開し、脳ベラを使用して右小脳を開排し、顕微鏡を使用しながら小脳橋角部に達し、顔面神経と脳動脈との接触部分等をはく離してその間に項部筋の小肉を挟んだ上、開頭部を閉鎖して、午後三時五〇分ころ、本件手術を終了した。
(三) 本件手術中の太郎の出血量につき、診療録(乙第三号証の1、2)には、本件手術中の総出血量は九〇六ミリリットル、午後零時三〇分までに総計五一六ミリリットルとの記載があり、午後一時一五分の「spon.」欄(spontaneous)には一五〇ミリリットル、午後二時四五分の「suc.」欄(suc-tion)には一五〇ミリリットルとの記載がある。
また、本件手術当日の太郎の血圧は、午後八時五五分ころは、収縮期(最大)血圧(以下「最大血圧」という。)一六〇水銀柱ミリメートル(以下、血圧については単位を省略し、数値のみを示す。)、拡張期(最小)血圧(以下「最小血圧」という。)一〇〇で、午前九時二五分から同一〇時ころまでは断続的に最大血圧一八〇、最小血圧一〇〇を記録し、その後しばらく最大血圧一三〇、最小血圧七〇前後で推移していたものの、午後零時四五分ころから再び、最大血圧が一五五前後となり、午後二時ころにいったん下がったものの、午後三時ころから再度上昇し、午後三時三〇分ころには最大血圧一八〇、最小血圧八〇、午後四時二〇分ころには最大血圧二〇〇、最小血圧九〇を記録した。
4 本件手術後の経過
(一) 太郎は、翌一八日午前零時ころ、小脳上槽、小脳虫部の上部周辺及び第四脳室に生じた血腫のために閉塞性水頭症になり、頭蓋内圧が亢進して危篤状態に陥った。そこで、太郎の頭蓋内圧を減ずるために、被上告人丙川を執刀者、被上告人乙山を助手として、同日午前二時ころから、前頭部から脳室内に管を挿入して髄液を排出する脳室ドレナージ術が施され、さらに、同日午後七時二五分ころから、頭蓋骨を一部切除する後頭蓋窩外減圧術が施され、右手術は午後九時四〇分に終了した。
(二) 太郎は、本件手術後、症状が一時わずかに好転したものの悪化し、以後、意識を回復することなく、危篤状態を何度も繰り返し、昭和五七年七月二〇日、開頭術後脳幹障害により死亡した。
5 病理解剖の結果
太郎の遺体は、神大病院第二病理学教室において病理解剖がされたが、剖検報告書(乙第四号証の1、2)には「太郎の小脳には約八〇パーセントにわたり出血壊死性変化が見られ、右変化は小脳虫部及び右半球に強く、第四脳室を越えて中脳後部にも及んでいる。また、小脳の高度の上向性ヘルニア及び小脳扁桃嵌頓が見られた。」「時間的経過から考えて開頭術が出血の引き金になったことは否定しえない。」「明らかな血管の破綻部位は指摘できない。」との記載があり、昭和五九年八月に作成された剖検追加報告書(乙第五号証、以下、前記剖検報告書と併せて「本件剖検報告書」という。)には、「小脳組織は広範な壊死を伴い軟化状態にあり、血管の詳細な検討は困難であるが、明らかな動脈りゅうや動静脈奇形の所見は認めない。外表に近い一部の小動脈には閉塞、器質化の所見があるが出血との因果関係は不明。一部に反応性の炎症、細胞湿潤、肉芽形成を認めるが、明らかな化膿性炎症の合併は認めない。」と記載されている。
6 高血圧性脳内出血の発生率
なお、高血圧性脳内出血のうちそれが小脳に発生する確率は、約一割程度である。
二 上告人らは、右事実関係を前提として、本件手術は長時間に及び、出血量も多かったが、その手術と時間的に近接して脳内血腫が発生したこと、血腫が生じた位置が手術部位と近接していること、本件手術の硬膜内操作に長時間を要している上、出血が右操作中と解される時間内に記録されていることなどを指摘した上、(1) 本件手術は、小脳橋角部の顔面神経の起始部を露出して行うが、右起始部を小脳片葉が覆っているため、片葉に脳ベラをかけてこれを牽引して右部分を露出する必要があるところ、被上告人丙川は脳ベラで小脳を強く圧迫する等の操作の誤りにより小脳に出血を生じさせた、(2) 本件手術中、前下小脳動脈をはく離する作業中に誤ってこれを損傷し、その結果出血させ、その止血が不十分であったため、手術直後から出血が生じたなどとして、被上告人丙川及び同乙山の手術中の操作上の誤りにより太郎が死亡した旨主張するものである。
三 原審は、これに対し、おおむね次のように認定判断して、被上告人丙川、同乙山らの本件手術に、上告人ら主張のとおりの誤りがあったものと推認するのは相当ではなく、これらの誤りにより太郎の脳内に血腫を生じさせた旨の上告人らの主張を認めることはできないとして、上告人らの請求を棄却すべきものとした。
1 本件手術当日である五月一七日午後一一時三〇分の時点での太郎の脳内の血腫は、ほぼ小脳中部及び傍正中部の位置に形成されていることが認められ、顔面神経と脳動脈のはく離が行われた本件手術部位である小脳橋角部と血腫の位置とは近接しているといい難い。
2 証人白馬明は、CTスキャン(検乙第一ないし第一〇号証)では小脳橋角部には血腫が見当たらない旨、血腫は小脳正中部に存在し、第四脳室及びくも膜下腔にまで及んではいるが、小脳橋角部から出血した場合には普通その位置が横にずれるはずの第四脳室が横にずれていないから、小脳虫部から出血して第四脳室を穿破したと思われる旨供述している。上告人らは、小脳橋角部から出血して第四脳室に流れ込んだと主張するが、これを裏付けるに足りる証拠がない。
3 神経減圧術においては、手術部位の小脳橋角部に到達するために脳ベラを小脳片葉にかける旨の上告人らの主張に沿う文献はあるが、本件手術においては、髄液の排出により十分な小脳の陥凹が得られたと認められ、また、脳は大小さまざまな差異のある臓器であると認められるから、脳ベラを小脳片葉にかけるまでもなく、小脳右半球の外側部分にかけて、手術部位に到達することが可能であったとの被上告人丙川の供述は合理性がある。仮に、脳ベラが上告人ら主張のとおり小脳片葉にかけられたとしても、脳ベラの使用が原因となって脳に血腫等が発生するのは、一般に脳ベラがかけられた近傍部、特に直下の部位であるところ、太郎の小脳片葉周辺に血腫があったとは認められない。したがって、血腫の位置から想定する限り脳ベラの操作の誤りにより右血腫が生じたと認めるのは困難である。他に、脳ベラの操作の誤り(過剰な圧迫等)があったことを認めるに足りる積極的な証拠はない。
4 本件手術のうち、硬膜内操作に要した時間は午後零時三〇分から午後一時三〇分ころまでの約一時間程度と認められ、本件手術において脳ベラによる小脳の牽引が長時間に及んだとは認められない。また、本件剖検報告書中に「両側上向性小脳ヘルニア。これは右側に強い。」との記載があるが、太郎は本件手術後死亡時までの二箇月以上の期間の大部分にわたりレスピレーター(機械呼吸器)により呼吸が確保されていたのであるから、その間脳に血液が十分流れず、脳浮腫の状態が続いたことから、脳の出血性壊死が進行して病相が変化している可能性が高く、現に強い圧力がかかった可能性のない左側にも小脳ヘルニアが生じているのであるから、「右側に強い。」との記載だけをもって、これを根拠に手術中に小脳に過剰な圧迫等が加えられたと認めることはできない。
5 本件手術記録には、午後一時一五分の「spon.」欄に一五〇ミリリットルの出血量の記載があるから、硬膜内操作中に少なくとも一五〇ミリリットルの出血量があったかのようである。しかし、右には手術に使用された生理的食塩水や排出された脳せき髄液をも含んでいると思われ、また、測定方法も厳密なものとはいい難い。また、午後一時一五分の「spon.」欄の記載は、その直前の「spon.」(ガーゼやタオル等によって吸収された血液量を示すものと解される。)の計測がされた午前一〇時三〇分ころから午後一時一五分ころまでの出血量を示すものと解するのが相当であり、必ずしも硬膜内操作中の出血量ばかりとは認め難い。したがって、右記載をもって本件手術の硬膜内操作中に一五〇ミリリットルの出血があったと認めることはできない。九〇六ミリリットルの総出血量についても、証人白馬の証言によれば比較的多いといえなくもないが、同証人が神経減圧術を施行する場合に用意する輸血量の範囲内であると認められるから、総出血量が通常に比して異常に多いとはいえない。
また、本件手術が顕微鏡下の手術であることや検証の結果に照らすと、手術部位である小脳橋角部と血腫のある小脳正中部及び傍正中部とが直ちに近接しているとはいい難い。
6 本件剖検報告書の前記記載からは、必ずしも本件手術部位付近と壊死の部位とが一致しているとはいえず、また、太郎の脳は本件手術後から破壊が進行し、病相も初期のものと変わっている可能性があるので、右解剖結果から直ちに、動脈損傷があり、その結果、出血性壊死が生じたと推認することもできない。
7 小脳に高血圧性脳内出血が起きる可能性は、他の部位と比較すると少ないものの一割程度は存在すること、太郎の本件手術当日の血圧値は手術前の興奮等を考慮しても比較的高い水準で推移していること、神大病院第一内科から手術には差し支えないとの診断を得てはいるものの、入院後一時的に高血圧が認められていたこと、病理解剖の結果、太郎の中脳大動脈に軽度のアテローム変化や後下小脳動脈の蛇行といった動脈硬化の症状があったことが認められることに照らせば、手術中の操作の誤り以外の原因による予期せぬ高血圧性脳内出血等が本件血腫の原因となったと推測することは、不自然とはいえない。したがって、本件手術中に手術器具による血管の損傷があったと推認するのは相当でない。
四 しかしながら、原審の右認定判断は直ちにこれを是認することができない。その理由は、次のとおりである。
1 前記一記載の事実関係によれば、次の各点を指摘することができる。
(1) 顔面けいれんは、顔面神経が動脈と接触することから生ずるものであって、それ自体、生命に危険を及ぼすような病気ではないところ、その根治手術である本件手術は、小脳橋角部において顔面神経と脳動脈の接触部分をはく離するもので、脳ベラで小脳半球を開排し、手術器具で後頭蓋窩深部の脳動脈に触れる手術であるため、慎重な操作が要求され、生命にかかわる小脳内血腫、後頭部硬膜外血腫等を引き起こす可能性のあることが指摘されている。
(2) 本件手術は、太郎の右小脳を脳ベラで開排して右小脳橋角部において脳動脈に触れるなど、術中操作は小脳右半球及び右小脳橋角部に及ぶものであるところ、太郎は術後間もなく、小脳上槽、小脳虫部の上部周辺及び第四脳室に血腫が生じ、神経減圧術によって引き起こされる可能性が指摘されている小脳内血腫を起こしたことが認められるほか、翌日には、小脳右半球の突出が強く右側小脳ヘルニアが認められるなど、小脳橋角部の近傍部及び右半球の異常が確認され、遺体の病理解剖においても、小脳虫部及び右半球に出血壊死性変化が強く見られると指摘されるなど、太郎の脳の病変が手術操作を行った側である小脳右半球に強く現われていることが明らかになっている。
(3) 太郎は、入院後三週間にわたり術前の諸検査を受け、手術の適応があると診断されており、内科においても、高血圧症とは認められず、手術には差し支えないとの診断を得ていたのであって、術前に本件手術中に高血圧性脳内出血を起こす素因があることを確認されていなかった。
(4) 高血圧性脳内出血のうちそれが小脳に発生する確率は、約一割程度にすぎない。
(5) 遺体の病理解剖によっても、太郎の小脳に生じた血腫の原因となる明らかな動脈りゅうや動静脈奇形の所見は認めないとされている。
以上のような太郎の健康状態、本件手術の内容と操作部位、本件手術と太郎の病変との時間的近接性、神経減圧術から起こり得る術後合併症の内容と太郎の症状、血腫等の病変部位等の諸事実は、通常人をして、本件手術後間もなく発生した太郎の小脳内出血等は、本件手術中の何らかの操作上の誤りに起因するのではないかとの疑いを強く抱かせるものというべきである。
ところが、原審は、右のとおりの事実関係を前提としながらも、原審の認定した血腫の位置から想定する限り、被上告人丙川らの脳ベラ操作の誤りにより血腫が生じたと認めることはできないとし、また、同被上告人らが本件手術中に血管を損傷したことをうかがわせる出血があったことを認めるに足りず、さらに、動脈硬化による血管破綻や高血圧性脳内出血等、本件手術操作の誤り以外の原因による予期せぬ高血圧性脳内出血が本件血腫の原因となったと推測しても不自然ではないから、本件手術中に血管の損傷があったと推認するのは相当ではないとしている。しかし、太郎は一過性の高血圧を示したことはあるものの高血圧症とは認められていなかったのであるから、本件手術中に高血圧性脳内出血を起こす可能性自体低いと考えられる上、高血圧性脳内出血が小脳内に発生する確率は前記のとおり一割程度にすぎず、本件手術中ないし直後に偶然、太郎に高血圧性脳内出血等が起きる可能性は実際上極めて低いといわざるを得ない。また、本件手術中に偶然、動脈硬化等による血管破綻が生じた可能性についての具体的立証がなされているわけでもないのである。結局、原審は、本件手術操作の誤り以外の原因による脳内出血の可能性が否定できないことをもって、前示のとおり、太郎の脳内血腫が本件手術中の操作上の誤りに起因するのではないかとの強い疑いを生じさせる諸事実やその他の後記2の事実を軽視し、上告人らに対し、本件手術中における具体的な脳ベラ操作の誤りや手術器具による血管の損傷の事実の具体的な立証までをも必要であるかのように判示しているのであって、太郎の血腫の原因の認定に当たり前記の諸事実の評価を誤ったものというべきである。
2 本件手術の総出血量は九〇六ミリリットルであるところ(なお、本件手術記録中には総出血量一〇〇〇ミリリットルとの記載もある。)、証人白馬も、右出血量が通常に比して相当多量であることは認める旨の証言をしている。また、本件記録によれば、硬膜内において顔面神経とこれに接触する脳動脈をはく離するという本件手術の硬膜内操作中は、項筋からの出血は止血済みであり、メスによる切除、切開等、出血を伴う操作を行うものではないから、出血が生ずることはほとんどないはずであることがうかがわれるところ、本件手術記録には、少なくとも硬膜内操作中であることが明らかな午後一時一五分に一五〇ミリリットルの出血量が記録されているというのである。硬膜内操作中の手術器具による血管損傷の有無が争われている本件において、右記録を軽視することはできないというべきである。原審は、午後一時一五分時の出血量の記録は午後零時三〇分ころから始まった硬膜内操作中の出血とは限らない旨、測定値には血液のみならず生理食塩水や排出した髄液が含まれている可能性がある旨を説示し、硬膜内操作中に一五〇ミリリットルの出血量があったとは認められないとしたが、右測定記録に関する原審の認定は、右記録の読み方としては不自然である。
また、本件記録によれば、太郎の家族である上告人花子らに対する本件手術終了後の結果説明は、本件手術終了から数時間経過した午後七時ころになってから行われ、また、被上告人乙山は、その際、本件手術が順調に終了した旨報告することなく、今後、太郎には脳浮腫、脳出血が生ずる危険があるなどと説明したことがうかがわれるのであり、右の事実は、被上告人丙川及び同乙山が、本件手術中に異常な事態が発生したことを認識していたことをうかがわせるものであり、本件手術中の操作により太郎の生命に危険を生じさせたのではないかとの疑いを生じさせる。
3 その上、原審が本件において重視した血腫の位置と手術部位との関係等に関する認定には、次のとおりの問題がある。すなわち、原審は、小脳内に生じた血腫の位置を問題にし、血腫はほぼ小脳虫部に当たる小脳正中部及び傍正中部に形成されており、手術部位である小脳橋角部に血腫があるとは認められないと認定したが、原審の血腫の位置の認定は、CTスキャンの所見によると小脳正中部及び傍正中部に血腫があるとする鑑定人白馬明の鑑定及び同人の証言に依拠したものであることが原判決及び本件記録に徴して明らかである。しかし、証人白馬の証言中には、CTスキャンを見ると血腫は小脳右半球に多く見られるとする部分もある上、診療録(乙第三号証の1、2)には、本件手術当日午後一一時三〇分に施行されたCTスキャンの結果について「後頭蓋窩の第四脳室から中脳水道、さらに脚間槽〜迂回〜上小脳槽に血腫あり」、翌五月一八日施行のCTスキャンの結果(検乙第三四号証)について「後頭蓋窩血腫は著変なし」「第四脳室周囲の血腫に著変なし」、同日施行された各手術の際の記録として「小脳半球の突出が左側より右側が大であり、右側の扁桃ヘルニアの所見を認めた」との各記載があるのである。これらの各記載と脳内の構造に照らせば、血腫は、小脳正中部及び傍正中部のみならず、手術部位である小脳橋角部を含む第四脳室周囲にもあることがうかがわれるのである。また、同じく診療録には、同月二〇日に施行されたCTスキャンの結果を表した見取り図があるが、この図には小脳右半球に血腫が存在する旨図示されている。
以上によれば、診療録中に血腫に関する前記記載があるにもかかわらず、これを検討することなく、鑑定人白馬の鑑定及び同人の証言から直ちに、血腫の位置は小脳正中部及び傍正中部にあるとした原審の認定は、採証法則に反するものといわなければならない。また、本件手術の翌日には小脳右半球に強い突出やヘルニア等の異常が現われていたことが確認されていたことは前記のとおりであるところ、原審は、右の異常の部位と本件手術との関連性についても何ら検討するところがない。
なお、鑑定人白馬の鑑定は、診療録中の記載内容等からうかがわれる事実に符合していない上、鑑定事項に比べ鑑定書はわずか一頁に結論のみ記載したもので、その内容は極めて乏しいものであって、本件手術記載、太郎のCTスキャン、その結果に関する被上告人丙川、同乙山らによる各記録、本件剖検報告書等の記載内容等の客観的資料を評価検討した過程が何ら記されておらず、その体裁からは、これら客観的資料を精査した上での鑑定かどうか疑いがもたれないではない。したがって、その鑑定結果及び鑑定人の証言を過大に評価することはできないというべきである。
4 さらに、原審は、脳ベラの使用が原因となって血腫が発生するのは、脳ベラをかけた場所の直下あるいは近傍部であるが、そのような場所に血腫があったとは認められないとの理由で、脳ベラの操作の誤りにより血腫が生じたとは認められないとし、また、手術部位である小脳橋角部と血腫の位置は近接しているとはいえないとの理由で、手術器具により血管が損傷されて出血したものとは認められないとしている。しかし、鑑定人白馬の鑑定及び証人松本悟の証言中には、脳ベラの操作によって血腫が発生する場所は、脳ベラをかけた部分あるいはその近傍部に限らず、離れた部位に発生することもあり得るとする部分も存するのであるから、脳ベラをかけた場所の直下あるいは近傍部に血腫が存することは認められないとの原審の認定を前提としても、脳ベラの操作と血腫の発生との関連性を一概には否定できないというべきである。また、証人白馬は、本件手術部位である右小脳橋角部と血腫が認められる第四脳室との距離がわずか一センチメートル余であると証言しているのである。原審は、顕微鏡下での手術であること等を理由に、近接しているとはいい難いとしているが、手術部位と原審認定の血腫の位置との距離は、手術中の血管損傷等による血腫発生の疑いを否定し得るほどの距離とは評価し難い。
以上のとおり、血腫の位置等に関する原審の認定事実を前提にするとしても、血腫の位置をもって、脳ベラ等手術器具の操作上の誤りにより血腫が発生したものとは認められないと判断することはできないというべきである。
5 また、原審は、本件においては、小脳橋角部から出血したとすれば横にずれるはずの第四脳室の位置のずれが見当たらないから、小脳橋角部から出血したものではないと考えるとの証人白馬の証言を引用した上、これに反して手術部位から出血したとする上告人らの主張を裏付けるに足りる証拠はないとしているが、かえって、診療録には、被上告人乙山による「くも膜下出血(術創部)が脳室内に逆流して来たと考えられる」との記載があり、右は、被上告人乙山が当時、上告人らの主張のとおり手術部位から出血したものと考えていたことをうかがわせる。
したがって、診療録に右記載があるにもかかわらず、これに触れることなく上告人らの前記主張を裏付けるに足りる証拠がないとした原審の判断は、採証法則に反するものといわなければならない。
五 以上によれば、本件手術の施行とその後の太郎の脳内血腫の発生との関連性を疑うべき事情が認められる本件においては、他の原因による血腫発生も考えられないではないという極めて低い可能性があることをもって、本件手術の操作上に誤りがあったものと推認することはできないとし、太郎に発生した血腫の原因が本件手術にあることを否定した原審の認定判断には、経験則ないし採証法則違背があるといわざるを得ず、右の違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は右の趣旨をいうものとして理由があるから、その余の上告理由について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、更に再鑑定等の必要な審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。
よって、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官金谷利廣 裁判官園部逸夫 裁判官千種秀夫 裁判官尾崎行信)